吉野ヶ里遺跡 南内郭|写真マイガーデンシリーズ


吉野ヶ里遺跡 南内郭

2016.08.03(00:01) 2418

吉野ヶ里遺跡 南内郭


吉野ヶ里遺跡歴史(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)
「縄文時代」
縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されている。
ここに人が生活し始めた大きな理由として、この地域が海と近かったことがあると考えられている。
最終氷期が終わり温暖となった縄文時代前期には、縄文海進と呼ばれる海面上昇があり、有明海は吉野ヶ里丘陵の南端付近まで広がり、遺跡から2-3キロメートルほどの距離にあったと推定されている。
有明海は干満の差が平均で5-6メートルと大きく、また遠浅の干潟を持つ。
この干満の差や筑後川などの河川を利用した水運に優れたこと、また貝やカニといった食料が豊富に得られたことなどの好条件が揃い、この地域に人の定住が始まったと考えられている。

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「弥生時代」
紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになる。
前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。
また、南のほうの集落に環濠が出現する。
中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。
集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。
また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。
大きな憤丘墓になると南北約46メートル、東西約27メートルの長方形に近い憤丘で、高さは4.5メートル以上あったと推定されている。
頂上から墓壙を掘って14基以上の甕棺を埋葬しているものもあり、本州の他の地域でも見当たらない。
後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。
北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる。



  今日の写真は「南内郭」

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  四棟の内 二棟復元された 望楼(見晴らし台)


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海岸線は次第に遠ざかり、この時代には神埼市千代田町や佐賀市諸富町付近にあった。筑後川の河口もまたその付近に移ったと推定され、遺構からは港のようなものがあったと推定されている。
吉野ヶ里丘陵は東西両岸を流れる城原川と田手川を通して、この港と交流を持ったと考えられている。
   ≪情報 : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1 より≫



  写真は 望楼(見晴らし台)

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   見晴らし台から

      日隈山(ひのくまやま)を望む(手前の小高い山、後ろは金立山)

   日隈山(ひのくまやま)は 烽火台(のろしだい)が在った場所

      小学校の遠足は 日隈山(ひのくまやま)と決まっていた

   吉野ヶ里遺跡から我が実家までは 車で10分足らずの距離

      城柵と環濠に囲まれた 居住区(南内郭)

   ここに来ると 卑弥呼の幻影が浮かんできます


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  吉野ヶ里遺跡 南内郭

   
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コメント
りらさん
コメントありがとうございます

> クメゼミ塾長様
> 「縄文時代」の記事 興味深く拝読させて頂きました
> 望楼のシルエット写真に古代文明を想うことが出来ました
> 勉強になりました
> 有難う御座います
 ⇒ 城柵と環濠に囲まれた居住区(南内郭)
   ここに来るといつも卑弥呼とイメージが重さなってきます
   邪馬台国は もしかしてここに在ったのかもですね

りらさん
古代へのロマンが広がる地 いつか機会があればお越しください
とても広いので 一日がかりですが 北内郭と南内郭だけなら半日も掛かりません
いつもありがとうございます。


【2016/08/04 00:31】 | クメゼミ塾長 #LCCNbXwA | [edit]
クメゼミ塾長様

「縄文時代」の記事 興味深く拝読させて頂きました
望楼のシルエット写真に古代文明を想うことが出来ました
勉強になりました
有難う御座います
【2016/08/03 22:50】 | りら #sSHoJftA | [edit]
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