般若寺 楼門(国宝) |写真マイガーデンシリーズ


般若寺 楼門(国宝)

2014.10.14(00:01) 1747

般若寺 楼門(国宝)

般若寺(はんにゃじ)は、奈良市北部・奈良坂(奈良きたまち)に位置する真言律宗の寺院。
  山号は法性山、本尊は文殊菩薩。コスモス寺の名で知られる。

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「歴史」

般若寺は東大寺大仏殿や正倉院の北方、奈良坂と呼ばれる登り坂を登りきった地点に位置する。
  般若寺門前を南北に通る道は「京街道」と呼ばれ、大和(奈良県)と山城(京都府)を結ぶ、古代以来重要な道であった。
この道はまた、平城京の東端を南北に通っていた東七坊大路(東大寺と興福寺の境をなす)の延長でもある。

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「創建」

般若寺の創建事情や時期については正史に記載がなく、創立者についても諸説あって、正確なところは不明である。
  ただし、般若寺の境内からは奈良時代の古瓦が出土しており、奈良時代からこの地に寺院が存在していたことは確かである。
寺伝では舒明天皇元年(629年)、高句麗の僧・慧灌の創建とされ、天平7年(735年)、聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したというが、これらを裏付ける史料はない。
  別の伝承では白雉5年(654年)、蘇我日向臣が孝徳天皇の病気平癒のため創建したともいう(『上宮聖徳法王帝説』裏書)。

鎌倉時代の文永4年(1267年)、当時の本尊・文殊菩薩像を開眼供養した際の願文(がんもん)では、
  「般若寺は聖武天皇が創建し、平安時代に僧観賢によって再興された」とする説を採用している。
しかし、観賢(854年-925年)が関与した「般若寺」は山城国(今の京都市右京区鳴滝般若寺町)にあった寺であり、
上記の説は同名別寺院を混同したものである。
  この、観賢再興説が誤りであるという点は、すでに江戸時代・享保20年(1735年)刊の『奈良坊目拙解』(村井古道著)で指摘されている。

信頼できる史料における「般若寺」の初出は、
  天平14年(742年)10月3日付の「金光明寺写経所牒」(正倉院文書)であるとされている。
ただし、これについても、今の奈良県香芝市にあった片岡寺(別名般若寺)を指すとみる説もある。

その後平安時代末頃までの歴史はあまり明らかでない。
  治承4年(1180年)、平重衡による南都焼き討ちの際には、東大寺、興福寺などとともに般若寺も焼け落ち、その後しばらくは廃寺同然となっていたようである。

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「鎌倉時代」

廃寺同然となっていた般若寺は、鎌倉時代に入って再興が進められた。
  寺のシンボルとも言える十三重石塔は僧・良恵(りょうえ)らによって建立され、建長5年(1253年)頃までに完成した。
その後、西大寺の僧・叡尊によって本尊や伽藍の復興が行われた。
  叡尊は、西大寺を本山とする真言律宗の宗祖で、日本仏教における戒律の復興に努め、貧者・病者救済などの社会事業を行ったことで知られる。
般若寺の位置する奈良市街北方地域は、中世には当時「非人」と呼ばれて差別された病者・貧者などの住む地域であり、  般若寺の近くには「北山十八間戸」(国の史跡)というハンセン病などの不治の病の人を収容する施設もあった。
叡尊は建長7年(1255年)から般若寺本尊文殊菩薩像の造立を始め、文永4年(1267年)に開眼供養が行われた。
  この文殊像は獅子の上に乗った巨像で、完成までに実に12年を要した。

「戦国時代以後」

その後、延徳2年(1490年)の火災、永禄10年(1567年)東大寺大仏殿の戦いでの松永久秀の兵火によって主要伽藍を焼失した。延徳の火災では前述の叡尊によって供養された文殊菩薩像も焼失している。

明治初期の廃仏毀釈でも甚大な被害を受けた。近代に入ってからは寺は荒れ果て、無住となって、本山の西大寺が管理していた時代もあったが、第二次大戦後になって諸堂の修理が行われ、境内が整備されている。なお、般若寺の客殿は実業家畠山一清によって東京都港区白金台に移築され、第二次世界大戦後は料亭「般若苑」として営業していた(現在は廃業)。



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「楼門(国宝)」


入母屋造・本瓦葺きの楼門(2階建て門)。民家の建ち並ぶ京街道に面し、西を正面として建つ。鎌倉時代(13世紀後半)建立。
下層は1間、上層は3間とする。長押を多用し、和様を基調としつつ、上層の組物など細部には大仏様(よう)の意匠を多用する。

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上層の出組の組物は、外部から見ると複雑な構造に見えるが、建物内部では柱が直接桁(屋根の垂木を支える水平材)に達する単純な構造で、組物は使われていない。
つまり、上層の組物は外側から釘止めまたは枘(ほぞ)差しとした見せかけのもので、このような構造の建物は非常に珍しい。
  ≪情報:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%AF%BA より≫


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コメント
香月 りら さん
コメントありがとうございます

> 一枚目のお写真
> 般若寺 楼門の正面撮り
> その豪奢でありながら 落ちつきのある風情ある
> この建造物をモノクロ撮影により 表現することに成功されていると思います
 ⇒ ありがとうございます。
 色々考えて 全景をモノトーンにしてみました
 りらさんに評価していただき 一安心です 

> 五枚目のお写真
> 開花したコスモスが一輪
> 背景暈けにされた楼門がより 印象的に残ります
 ⇒ 今年は コスモスが案外少なくて 寂しかったのです
 なので 一輪だけ 楼門の影に浮かびあがるようにして撮りました

 平家によって 奈良の大仏殿が炎上させられるのですが ここ般若寺から 出火したものです
 平氏もまさか 東大寺にまで 強い風に煽られ 火の手が廻るとは予測もしなかったのでした
 平家が滅亡した一因に 東大寺炎上が挙げられます
 栄華を極めた 藤原頼長(保元の乱首謀者)も落ち延びた最期が この地でした

 般若寺は京の都と奈良の都との間にあることから 歴史的にも 名を残す要衝の地であります
 
 りら さん
 体調に気を付けながら 写真ライフ エンジョイしましょう~♪
 いつもありがとうございます。
【2014/10/15 00:12】 | クメゼミ塾長 #LCCNbXwA | [edit]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
【2014/10/14 11:43】 | # | [edit]
一枚目のお写真
般若寺 楼門の正面撮り
その豪奢でありながら 落ちつきのある風情ある
この建造物をモノクロ撮影により 表現することに成功されていると思います

五枚目のお写真
開花したコスモスが一輪
背景暈けにされた楼門がより 印象的に残ります
【2014/10/14 07:25】 | 香月 りら #sSHoJftA | [edit]
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